書籍『会話を哲学する』(三木那由他 著)を読んだ

感想とか批判とかはその他の方がたくさん紡いでいるので、そっちを見てほしい。
私は読了後に抱いた自身の会話の振り返りをつらつら書きとめた。

私は現在、学生寮に住んでいる。この前、陽性者が発生して、しばらく濃厚接触者として過ごした。その期間、陽性者に対する周囲の扱いの雑さに腹が立っていた。
すでに自室で隔離されている陽性者に対し、その陽性者の隣人(Bさんとしておく)が自身の精神的安寧のために「部屋を移動するね」と伝えたことに、私はどうしても許せない引っかかりを感じていた。今までは、陽性者に向かって直接”私はあなたが怖いので必要以上に距離をとります”と差別的態度を伝えているようなものだから、単にそれが許せないのかなと思っていた。陽性者の内側に”避けられる”や”拒絶される”自己が形成されることを恐れたのだと理解していた。

しかし、三木さんの主張から整理すると、ちょっと違った解釈ができた。

Bさんが陽性者に「部屋を移動するね」と言ったとき、
”Bさんが「あなたが陽性になったことにストレスを感じている。だから距離をとる」態度をもつ”
という約束と、もっといえば
”そのような繊細な心をBさんは持っている”
という約束も共有してしまう。
Bさんは自身の心の負担を陽性者が感染した事実に帰属させ、だって繊細な心の持ち主だからしょうがないでしょと開示している。Bさんのストレスの原因が自分が感染したことにあることと、繊細な心へ配慮することを共通する約束として突き付けられた陽性者は、一体何を感じるのか?

もちろん、陽性者は芯のあるしっかりした方だったので、そんなことでいちいち心が折れるほどヤワではないと思う。しかし、だからといってしっかりした心の持ち主を無下に扱っていい理由にはならない。もうひとつの引っ掛かりはここにある。つまり、陽性者の心の強さに乗っかる形、というか利用する形で、Bさんは「部屋を移動するね」と言っているのだ。
三木さんのコミュニケーション観に基づけば、両者の間には”陽性者が所有するメンタルは頑丈だ”という約束が形成されているのかもしれない。

だが、「あなたは強い、だからこれくらいの言動には耐えられる」という主旨のことを他人から言われたとき、「確かに!」と思うのか、「いやそんなわけ」と思うのかは、聞き手の心理次第だろう。「いやそんなわけ」と思ったのに、その感情に蓋をして強い自分として振る舞えば、いつか心が消耗してしまう。しかし、上でみたように、Bさんのストレスの原因を陽性者に帰属させ、なおかつ、繊細な心を持っているのだから配慮してね、という2項を両者は共有してしまった。だから、陽性者はBさんへ負担を与えた人物として自己を認識し、「私の感染のせいでBさんがストレスを感じてしまった。これ以上負担をかけるわけにはいかない。なぜならBさんの心は繊細だからだ」という推論をせざるを得ない。だから、”あなたが所有するメンタルは頑丈だ”という約束を共有されたとき、「いやそんなわけ」と返すことが難しくなる。すると、陽性者がBさんに一方的に配慮する関係性が出来上がる。ちなみに、Bさんは陽性者よりも年上だ。

これは、強さを他人から期待されるうちに次第に消耗していくバーンアウトの事例や、お局様が後輩からの配慮を過剰に要求する構図に似ていないか? Bさんに問いたい。自身の心は一生懸命に守るのに、陽性者の心は考慮しなくてよいのか?