愚痴に近い何かー独身者に向けられる妊娠・出産にまつわる言動編ー

私は妙齢で独身だ。

「ライフプランを考えなさいよ」と助言を受ける。
妊娠と出産にはタイムリミットがあるという論理のもと。
ダウン症児が生まれる確率が上がるんだよ?」と、まっとうさを装って意見される。
高齢出産には色々リスクが伴うのだという論理のもと。

だけど、
「近い将来、結婚する予定はありますか?」
「妊娠している可能性はありますか?」
とも、就職や転職活動中に聞かれる。
なぜその質問をするのかは聞かない。なぜから理由は明らかだから。
「はい、妊娠しています」と回答して、「おめでとうございます」と返事がもらえるわけがない。
「はい、妊娠しています」と回答したら、「何か月目」かを聞かれ、就職が現実的なのかどうかを吟味される。働き手としてふさわしいかをジャッジされている。
就職して1年以内に育休を取得されることは、人員の損失だけでなく、現場指導からしても効率が悪い。

助言を受けるくらいなのだから、妊娠・出産とは、一般的に望まれる性質を有しているのだろう。価値があるものなのだろう。
なのになぜ、望まれるもの、価値があるものをもっている人間をあわよくば避けたいという心理が透けた質問も同時にまたぶつけられるのか。

実は非常に混乱している。
この状況に陥った人間はおおよそ。

もし「あの映画、有名誌レビューで星5の評価なんだって。いつかは観たいよね」と言われると同時に、
「あの映画をみる人とは友達になれない。みる予定はある?」
と言われたら。
社会という同一人物から言われていると想定してもいいし、2人の異なる人間から言われていると想定してもいい。
重要なのは、聞き手の中に、対立する価値観が二つ所有されたという事実だ。現実は映画に行く選択よりももっと重い、子どもを授かるという選択に対してである。

愛する人との子どもがほしいし、妊娠出産にはタイムリミットがある
・しかし労働は国民の義務であるし、お金がなければ生活できない。
この状況下で上記対立する価値観を所有したとき、われわれは両方に理解を示す姿勢を強制されている。

われわれは、すべからく、賢い選択と判断のもとに、
妊娠して、出産しなければならない。

いつ妊娠するのか、いつ就職するのか、いつ出産するのか、いつ結婚するのか、
不確実な要素で構成されているはずのイベントを確実にこなしていくために、たくさん計算して、逆算して、まるですべてうまくいくかのように展望を並べなければならない。
あほなのか。

人はいつか死ぬ。
その過程には病や障害があるだろう。それがいつかも分からない。
分からないから今を精一杯生きる選択ができる。
精一杯生きることのうちには、結婚や出産や妊娠があるのでは。
しかし、それら「お祝い事」さえ不確定なこととして排除されるなら、精一杯生きることの中身は何なのか。
無味乾燥した、のっぺりした、他人の価値が介入した生を精一杯生きろとでも?

あるいは、「お祝い事」を勝ち取った自身の計算高さに満足しながら、心のどこかではお祝い事をお祝い事として共有できない生を生きろと?

または、「お祝い事」を享受した結果、計算できない自身の愚かさを呪いながら排除される側としての生を生きろと?

もしくは、計算することを諦めて、お祝い事も放棄することが、賢い生なのか?

映画『雨月物語』(溝口健二監督)を観た

製作:1953年 日本

監督:溝口健二

 

イタリアからの留学生に「日本の映画で何見たことあるの?」って聞いたら、『東京物語』と『雨月物語』と回答され、ちょっと狼狽えた(ジブリとかを期待していた)。

なんか、よくわかんないけど恥ずかしくなった。

東京物語は観たことがあったので、雨月物語を急遽観ることにした。

 

以下、フィルマークスより転載。

 

カメラワーク?演出?なんと言ったらいいのか。全然見飽きない。

若狭様が初めて登場する場面は、視点が上からゆっくり降ってきて、明らかに妖艶な怪しい人物が他とは違うゆっくりとした速度で手前に近づいてくるという演出で、初見視聴者(私)を「うわ、こいつ、やばいやつだ」と直感させることに成功していた。
(京マチ子田中絹代……他の映画も観なきゃ)

怯える演技をする役者にカメラが迫り、役者はカメラに刀を振る、とかも、緊迫感とか焦りの感情を上手く伝えていると思う。すげー
モノクロ映画だからか、光と影の演出が巧み。場面によってはわざとシャドウメイクを入れて、陰影を強調していたり。
人と人とがぶつかり合う演技が愛らしいと思えるほどに自然。市場の雑踏の長撮りとかは見ていてワクワクした。
建物の影と湖面のキラキラが綺麗だった。横顔も後ろ姿も、朽ちた木材も、シルエットって美しいんだなって思った。

横に縦に奥行に、カメラが違和感なく移動するので、どーやって撮影したのか気になった。

ストーリーは戦争でごちゃごちゃになった生活を再構築するお話。
戦争だけが悪いのではなく、人の欲も悪さの一因だけど、でも戦争がそもそもの元凶に変わりはないという。私はあまり好きではない。
男女の描き方は時代の制約もあって古すぎるので、むしろスルーできる。

(※Wikipediaを見ると当時の称賛の声(「溝口は健気な女性を描く天才だ」系)が惜しみなく載っているので、真に受ける現代っ子がいないか不安にはなるが)

90分にしては詰め込みすぎかもしれないが、テンポがいいから見飽きないのかも。

映画『片袖の魚』(東海林毅監督)を観た

製作:2021年 日本

 

「誰かと思った」、「全然わからなかった」、「すっかり女じゃん」という無意識の差別やバイナリーな世界観を反映した言葉がけ*1を、過去にトランス手術を受けた友人にしてしまったことがあるので、鑑賞後は反省の念に潰されて落ち込んだ。

特に、「いつからそうなの?」という質問と全く同じ言葉を当事者である友人にかけてしまっていたと思う。当時私達は高校生~大学生だったのでお互い不勉強だったとは思うが、何もフォローしないまま大人になってしまった。今後の生き方を考える必要に迫られる内容だった。

「もしかして男の人?」という質問に対し、ひかりが煮え切らない回答をしてしまう場面は回答内容も含めて胸が苦しくなる。マジョリティによって用意された分かりやすい説明を、きちんと回答してもよいはずの当事者が差別や無理解を恐れて、結局請け負ってしまう構造を再現していると思う。

*1:このような無意識の差別を「マイクロ・アグレッション」と言うらしい。アメリカにずっと住んでいるアジア系の見た目をした人に対して、「英語が上手ですね」と言うことなどもその一つ。

映画『グッド・ナース』(トビアス・リンホルム監督)を観た

製作:アメリカ 2022年

以下、フィルマークスより転載。

 

チャーリーの叫びである「できない(I can’t)」、「できない」、「できない」の繰り返しに、ケアワーカーが心の奥底で抱える苦しみと不満がにじみ出ている気がした。
私は英語が苦手なので英会話をそのまま理解することができていないが、多分、“できなさ”=「I can’t~」の台詞があちこちに象徴的に登場していると思う。

・手術を受けたいが、保険に入れない、
・休みたいが、人手不足だし次々に急変がおこるから休めない、
・家族の時間を大切にしたいが、夜勤職だからできない、
・事実を伝えたいが、伝えられない、
・患者とその家族を思いやりたいが、規則のためにできない、
・生きている患者が優先なので、死後の患者を丁寧に扱えない、
・十分な稼ぎがほしいが、満足に稼げない、
・救いたいが、救えない、
・(女性が市長になれない、とかも)
……

チャーリーを単なる精神異常者として理解することはできない。なぜなら、彼はエイミーには特段の優しさを見せていたから。単にエイミーに好意があったからではなく、社会からこき使われて心がズタボロになる経験をしている同業者として、エイミーを労わる気持ちがあったのだと思う。異常だから殺人をしたのではなく、そのうちに異常になってしまった、という方が正しいだろう。だから殺人の動機は彼にも説明「できない」。
ケアワーカーや医療従事者は社会にとって必要不可欠な財産であるはずなのに、なぜか待遇がすさまじく悪い。あらゆる「できない」に囲まれて、「できない」を痛感して、でも働き続けなければならない。
誰も彼らを助けてくれない。自分達同士でなんとか補うしかない。
病院は常に患者達から品質を評価され、問題が発生したら裁判になり、巨額の損失を支払うはめになる。問題の種は穏便に賢く摘むしかない。誰も根本的な解決はできない。

つまり、グッド・ナースとは、そんな環境でも働き続けて、しかも信念も貫けるような、そういう超人を指すんだと思う。

患者が死んだ後に実施される、いわゆるエンゼルケアが丁寧に描かれていて、ちょっと感動した。院内で死体に触れる機会が多いのは看護師だ。死が頻発する分、人が死ぬ瞬間や死体に慣れてしまう。看護師にとって人の尊厳が強く意識される瞬間の一つが、遺体に触れているときだろう。
死が頻発するほど、不審死が紛れていることにも気が付けない。それくらい、泥のような多忙な場。

私は火葬になじみがあるので、棺に埋葬された遺体を捜査のために掘り起こす場面は興味深かった。遺体をもう一度地上に出すことの痛々しさを、死生観上の、あるいは文化的な感覚として共有できず残念だった(これは私の教養のなさのせい)。

映画『私をくいとめて』(大九明子監督)を観た

真剣に描かれているけど重くはない類の恋愛映画を観たくてチョイス。

途中の冗長な感じに飽きてしまったが、休憩を入れて観たら割と楽しめた。のんの演技と演出によって、心の内側の「こんな感じ」を映像にできるのが凄い。ただ、のんを31歳にするのは説得力がない。

こじらせ、とまではいかないが、
おひとり様が板について独特の生活スタイル?習性?を獲得した独身女性の様子が微笑ましい。ほわわんとしているけれど、頭の中は色々忙しい感じね。で、しっかり自分の感情や想いはもっているから、たまに棘がでるやつ。
大丈夫かな、この子……と鑑賞者が心配したなら、同じことを主人公は主人公へ感じているはず。31歳はほわわんキャラだけで通用するほど子どもじゃないので。

多田くんは最初から勇気がある人物なので、映画の紹介文から想像していたような恋愛模様ではなかった。綺麗に両想いから始まり、いい感じにまとまるという、ほんわか系の恋愛だった。省エネ、燃費長持ち、じっくり熟成タイプ。
ホテルで「帰りたい」と苦しくなる場面、いいですね。
ただ、多田くんのどこがいいのかよく分からん。カーターのこと馬鹿に出来ないぞ?本人達にしか分からないのが恋だと思うから別にいいけど。多田くんはAの代わりにはならないので、今後は不安になったり後戻りしたりする度に、もっと内心グルグルするのでしょう。

映画『ほしのこえ』(新海誠監督)を観た

26分の映画。

新海誠を批判しよーというノリで気軽に見たら、めっちゃいいじゃんコレ。一体どうした。

メッセージを発信した時空と、メッセージを受信した時空に隔たりがあることを、SFロボット作品に絡めちゃうのが面白い。
メッセージを送信するミカコは、自分が生きているのか、メッセージが届いているのか、ノボル君が自分を覚えているのかさえも分からない未来に向けてメッセージを発信する。一方のメッセージを受信するノボル君にとっては、ミカコはどんどん思い出の彼方の存在になっていく。たまに届くメッセージは、たった今発信されて届いたメッセージではない。だから、現在どこかにいるであろうミカコを思い出すのではなく、過去にメッセージを発信したミカコを想うことしかできない。同じ時を共有できない悲劇ですね。「地球と宇宙に引き裂かれた恋人みたい」。
想いを確認しようにも確認できないし、すれ違うにもすれ違えない。何も出来ない2人。何もできないから、メッセージの送受信に想いを込めて、最終的に「ここにいるよ」としか言えない。「ここにいたよ」でも「ここで待っているよ」でもないのがミソですね。過去形でも未来形でもなく、2人は異なる時空で現在を生きているんだという。
見終わったあとも切なさが続くのがよい。淡い色合いなのに視覚にモロに訴えてくる綺麗な背景が切なさに拍車をかけている。

半年で冥王星に行ける技術があるのに、電波送信に1年もかかる世界線って一体なんだ?とは思う。
コックピットの設定とか、中学生を狩り出すこととか、謎の生命体とか、それを静粛する描写とか、細かい光や止め絵の演出とか、まんまエヴァじゃん!というツッコミもある。
でも設定が面白いからいいや。

映画『君の名は。』(新海誠監督)を観た

言の葉の庭』が気持ち悪かったので、新海誠を批判してやる〜というノリで観たら、結構良くてびっくりした。過去に観賞した時は超微妙だと思ったのに。
(追記: って思ってたんだけど、鑑賞から時が経つにつれ、夢から覚めるようにどんどん疑問点も浮かんできた。優秀なプレゼンを前に拍手喝采だったんだけど、翌日資料を見返したらあれ?と思う現象のよう。前回見た時も同様の経過を辿って、2.5点の評価に行き着いた気がする。)

【過去のレビュー(2.5点)】
プレゼンはとっても上手。でもストーリーや人物の心境を考えると、あれ?となる。
数百人が死んだ災害が無かったことになって、運命のお姉さんと結ばれて……、そんなハッピーエンドあり??
祠の謎回想シーンに登場する赤い紐は、臍の緒の隠喩か?とか考察してみたけど、全然そんなことはなかったってばよ!

【2022年9月11日観賞】
テンポが良くてどんどん引き込まれる。
謎が謎を呼ぶ展開とか、現実世界より瑞々しくてキラキラしている都会世界とか。

大災害の元凶や禍々しい自然の脅威を、思わず見とれてしまうくらい美しく感じることが私にはある(不謹慎だけど抗えない)。この映画の彗星の描き方はそれをやってのけていると思うので、アニメの表現としては満足かな。畏怖と美しさと禍々しさの境界を行ったり来たりする感じ。
おそらく、以前鑑賞した時の私は、そういう禍々しい災害を美術面でも丁寧に描いておきながら最終的にハッピーエンドに至る展開の都合の良さ・腑に落ちなさが許せなかったのだと思う。
その許せなさは、正直、今回も変わらない。でもまぁ、かつて程低評価にしなくてもいいかもと思えた。

組紐と時間を掛け合わせる発想は美しいなぁと思う。元いた世界はどうなる?というパラドックスが生じるので、無理があるけど。
瀧くんの「破壊された街にどうしようもなく惹かれるのは何故だ?」という台詞は、破壊される経験をしたことない人物が吐く言葉としては不適切だと思う。もちろん、三葉をずっと探していたからだという回答はできるし、上で書いたようにどうしようもなく惹かれてしまう畏怖の対象はあると思うのだが、災害をテーマに組み入れるなら登場人物の発言の意味をよく考えろと思う。
それに、大きな代償無しに皆を生還させることができました!なんて都合の良すぎる展開を提示されると、その後の代償として日本が沈没でもするのでは?と思えてしまう。神社絡みのお話だし。日本の神様って、鎮めなければ荒ぶるなり祟るなりするので。『バタフライ・エフェクト』のような、ある可能性を成り立たせるためには、現にある何かを諦めなければならない展開の方が私は好きだ。
辛いことは全て消せたら楽だけど、そうじゃないから現実は豊かなのであって、現実を模したものの豊かでない映像作品は出来が悪いと思う。高山ラーメン屋の店主が抱えていた痛みはどうなったの?とか、犠牲者名簿を編集した無数の人々の悲しみはどこへいったの?と疑問を持たざるを得ない。
また、同級生が三葉に協力して変電所爆破作戦を決行してくれる覚悟もよく分からん。一言でまとめるなら、同級生の一方は愛読書がムーであるようなお花畑で、もう一方は主体のない金魚の糞状態、つまり二人とも馬鹿だから決行できたってことになると思う。やっぱり説得力はない。

あの世の境を子どもである四葉が無邪気に簡単に飛び越えられる表現はちょっとぞぞぞっとした。
あと、よく分からんパンチラとか、胸揺れ表現は要らない。
「ちゃんと幸せになりなさいよ」という台詞と結婚指輪、からの結ばれるエンドは、恋愛(性愛)至上主義だなぁーと思う。
三葉の手のひらに書かれた文字が「すきだ」と知ったときには、正直馬鹿じゃねぇの?と感じた。名前書くってゆうてたやん。失笑。