映画『グッド・ナース』(トビアス・リンホルム監督)を観た

製作:アメリカ 2022年

以下、フィルマークスより転載。

 

チャーリーの叫びである「できない(I can’t)」、「できない」、「できない」の繰り返しに、ケアワーカーが心の奥底で抱える苦しみと不満がにじみ出ている気がした。
私は英語が苦手なので英会話をそのまま理解することができていないが、多分、“できなさ”=「I can’t~」の台詞があちこちに象徴的に登場していると思う。

・手術を受けたいが、保険に入れない、
・休みたいが、人手不足だし次々に急変がおこるから休めない、
・家族の時間を大切にしたいが、夜勤職だからできない、
・事実を伝えたいが、伝えられない、
・患者とその家族を思いやりたいが、規則のためにできない、
・生きている患者が優先なので、死後の患者を丁寧に扱えない、
・十分な稼ぎがほしいが、満足に稼げない、
・救いたいが、救えない、
・(女性が市長になれない、とかも)
……

チャーリーを単なる精神異常者として理解することはできない。なぜなら、彼はエイミーには特段の優しさを見せていたから。単にエイミーに好意があったからではなく、社会からこき使われて心がズタボロになる経験をしている同業者として、エイミーを労わる気持ちがあったのだと思う。異常だから殺人をしたのではなく、そのうちに異常になってしまった、という方が正しいだろう。だから殺人の動機は彼にも説明「できない」。
ケアワーカーや医療従事者は社会にとって必要不可欠な財産であるはずなのに、なぜか待遇がすさまじく悪い。あらゆる「できない」に囲まれて、「できない」を痛感して、でも働き続けなければならない。
誰も彼らを助けてくれない。自分達同士でなんとか補うしかない。
病院は常に患者達から品質を評価され、問題が発生したら裁判になり、巨額の損失を支払うはめになる。問題の種は穏便に賢く摘むしかない。誰も根本的な解決はできない。

つまり、グッド・ナースとは、そんな環境でも働き続けて、しかも信念も貫けるような、そういう超人を指すんだと思う。

患者が死んだ後に実施される、いわゆるエンゼルケアが丁寧に描かれていて、ちょっと感動した。院内で死体に触れる機会が多いのは看護師だ。死が頻発する分、人が死ぬ瞬間や死体に慣れてしまう。看護師にとって人の尊厳が強く意識される瞬間の一つが、遺体に触れているときだろう。
死が頻発するほど、不審死が紛れていることにも気が付けない。それくらい、泥のような多忙な場。

私は火葬になじみがあるので、棺に埋葬された遺体を捜査のために掘り起こす場面は興味深かった。遺体をもう一度地上に出すことの痛々しさを、死生観上の、あるいは文化的な感覚として共有できず残念だった(これは私の教養のなさのせい)。