映画『言の葉の庭』(新海誠監督)を観た

監督:新海誠 製作年:2013年

鑑賞日:2016年頃→2022年9月9日再鑑賞

【過去のレビュー】
憂いている女性を包容力のある男の子が救ってあげるというヒーローものかな?
新海監督は年上のお姉さんが好きなん?

【2022年9月再鑑賞】
46分という短さに惹かれて、超久しぶりに見返した。
案外、以前よりも肯定的に評価できたが、でもやっぱり気持ち悪い。なんというか、『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマくんとお姉さんの関係を見習ってほしい。
二人とも成長しないことを製作側が自覚しているストーリーなら高評価、そうでないなら低評価を付ける。私にはどっちなのか判別がつかない。前者だった場合、タイトルが綺麗すぎるので変更した方がいいと思う。

その名も『マザコンとメンヘラの邂逅~成長しない二人~』

 

新海誠の作品は、物語の核となる綺麗な女の人を神格化して描いていると思う。謎に満ちているけど、手に触れたい存在に仕立て上げており、都合よく振る舞うとでも言えようか。『天気の子』の女の子(名前忘れた)しかり、『君の名は』の三葉しかり。

一方で、彼女らと対比される形でダメな女も登場するので、品定め感もすごく感じる。この物語でいうダメな女は母親と髪巻いてる女子生徒である。母親へ投げかける台詞や女子生徒の取り巻き達の台詞から、一回り年下に手を出すことをタブー視するか、鼻で笑っている監督の姿勢が見える。だから、雪野ちゃんと秋月君のロマンスには背徳感が匂う。気持ち悪い。「年齢なんて関係ない」とはしないことが、ムカつくわ。

多分、恋に恋している男の子の目線から描いているからなんだよね。別に、そのような男の子の感性は初々しいし、綺麗だと思うので、描きたければ描けばいいと思う。でも物語の進行上、他者と関わるのであれば、その恋に恋している男の子の世界に亀裂が入る経験とか、拒絶されて傷ついて、でも思い出になることを受け入れる経験とか、…ね、なんか、その先がほしいのよ。妄想モノのイケないビデオに付き合わされているような気分になる。誰か、喝を入れてあげて?と願いたくなる。

総じて背景が綺麗だった。冒頭から見事。雨と水たまりに背景が反射し、光とともにキラキラしている描写が素晴らしい。感動した点は以上。

 

”「年齢なんて関係ない」とはされていないので、雪野ちゃんと秋月君のロマンスには背徳感が匂う”ことを念頭に、以下ツッコミのようなものを書く。
27歳の女性が15歳の男の子から癒しを得ていた、という設定は、まぁ…飲み込める。というか、確かに同年代には話せないけど、相手が幼くて無垢であるがゆえに、素の自分をさらけ出せることはあると思う。アラサーと10代の間なら、妙な人生経験マウントすれすれにはなるが、よくあることなのでは(まさに学校でよく見る光景)。

この設定からすれば、雪野ちゃんは秋月君が自分の心に決して侵入してこない、つまり自分を傷つけることもないことを確信していたから、雨の日に毎回会ってくれていた。でもそこで前提されているのは、相手と自分が絶対に交わらないという安心感だと思うので、秋月君からの告白を雪野ちゃんが真剣に受け取るのはなんか違う。綺麗な女の人のことを都合よく描きすぎている。相手は定期試験に苦戦する程度のただの高校生だぞ?(それを自覚している秋月君に対し、雪野ちゃんから抱擁するのはなんなん?ご褒美?)

それから、秋月君からの告白に瞬時に答えることができないなら、後でちゃんと断れよ、雪野ちゃん、と強く思う。何、たぶらかしてんのさ。「勘違いさせてごめん、でも君には感謝している」くらいはっきり言って、きっぱり水に流し、秋月君への責任とれよ。つまり、もう会わないと約束するか、きっぱり拒絶するかしてほしい。27年も生きて、一応、交際経験もあるんだし!他人の痛みくらいわかるだろ!!という雪野ちゃんへのいら立ちを激しく感じた。自分の心が繊細であることを自覚し、精神的安寧は一生懸命に確保するくせに、他人の心の機微には鈍感なタイプなのかも。

最初から最後まで、雪野ちゃんがそういうことができない女として絶妙に描かれているんだか、綺麗に理想的に振る舞う女性として描かれているんだか、よく分からないんだよね。

確かにこういう人は実際にいるけど、それを意味不明なロマンス作品にしちゃうのが気持ち悪い。これは、私の好みの問題なのか?あれか、こういう弱さをさらけ出せちゃう人いるよね~という皮肉なのか?いずれにせよ、雪野ちゃん気持ち悪いわ。

悩むのは、伊藤先生が雪野ちゃんの元カレで、別れた後も色々サポートしてくれていたという設定をどう評価すればいいのか分からないこと。
伊藤先生は秋月君が絶対に知らない雪乃ちゃんを知っている訳だし、関係が終わった後もサポートしてくれるという大人な対応をしてくれた。これを秋月君の幼さを際立たせる設定としてみるべきなのか。
でも一方で、雪野ちゃんは伊藤先生に「おばあちゃんに会っている」という嘘をついており、自己嫌悪に陥っている。そういう誰にも明かせない雪野ちゃんの自己を開示できる救いの存在として秋月君を理解するべきなのか。つまり、伊藤先生は雪野ちゃんを癒せない存在として機能しているとみるべきなのか。でも雪野ちゃんが伊藤先生をそういう風にしか見ることができないのなら、雪野ちゃんの人間性は最悪だね……と思う。伊藤先生、別れて正解だよ。

むしろ、秋月君がヒーロー過ぎるのかもしれない。そんな完璧な夢追い人おる?家族への未練を抱え、年上の女性も抱擁できちゃう達観した“俺像”が気持ち悪い。

秋月君の靴づくりにのめり込む理由が母への想いにあるなら、兄が母を「早く子離れして欲しい」と形容したことの逆で、秋月君には「早く母離れしな?」という形容をあげたい。
女物の靴を作るのも、年上の雪野ちゃんに惹かれたのも、最終的に母を求めてという心理に行き着く。綺麗に仕上げちゃあかんやつでしょ。15歳という幼さからしたら、理解はできるが、応援はしない。
家事諸々を子どもに任せて、子どもの夢を応援することもせず、自らは男に走るような母は明らかに毒親なのだから、秋月君は早く自立して、母と疎遠になりな?精神的にもね?と思う。だから、やはり、秋月君の成長を考えたら、雪野ちゃんと接点を残したまま終わるのは良くない。

しかも、「いつか会いに行く」という結末が、ありもしないその後を予感させて気持ち悪い。色んな人のレビューを読んでいると、結ばれない結末支持派もいるようだ。結ばれないという結末を用意するのなら、抱擁じゃなくて、決別で締めようぜ。雪野ちゃんから拒絶されて、恥ずかしくなるくらいのめっちゃ苦い思い出と決別を胸に靴を作る、という方が断然かっこいいのだが。
だって、そんな甘美な奴が作った靴を履きたいか?

映画&小説『ペンギン・ハイウェイ』(石田祐康 監督&森見登美彦 著)の感想

映画版

監督:石田祐康

製作:2018年

 

原作小説

著者:森見登美彦

 

映画を観てから小説を読んだ。宇多田ヒカルのファンなので、映画の主題歌に宇多田ヒカルの楽曲が使用されていたことから、アニメ作品が存在することは知っていた。歌詞の内容からやや切ない系なのだろうとも予想がついていた。

【映画の感想】

めっっっっちゃ爽やかで可愛いジャパニメーション版『インターステラー』って感じ。
原作は未読。でも映画を観たら読みたくなった。
世界の果ては、折りたたまれて、内側にある。

公開当時Twitterで謎に炎上していたので、映画館では観ないでおこうと決めたまま、今日になってしまった。宇多田ヒカルが主題歌を担当していることは知っていたので気になってはいたが、そこまで話題になった作品でもないし忘れていた。
夏だし、時間あるし、せっかくだから観てみるかと思って観てみたら、お気に入りの作品になった。
もちろん、不満点はたくさんある。いじめっこの描き方が雑であること、登場人物の表情が分かりやすすぎること、女の子を感情的に男の子を論理的にという分かりやすすぎるステレオタイプキャラとして描いていること、などなど。
でも夏に観るアニメとしては、ワクワク感とどうしようもない切なさが丁度よく同居しているため、お勧めできる。

Twitterで炎上していた内容は、確か主人公がお姉さんの胸を好きすぎて気持ちが悪いというもの。気持ちはわかる。映画を観に行った少年少女が女性の身体へ過剰な観念なり信念を形成してしまうことを懸念したくなる。胸に執着しすぎ。すくすく成長している証拠だと言えるかもしれないが、それをNOと教えるのが大人からの教育だという批判はあるかも。でも、あの主人公の場合には研究対象で、自分の性欲に気がついていないという可笑しさ、未熟さがあるからセーフなのかな。というか、触ってないし。
青山君には、ぜひ「NASU」に就職してもらって、いつかお姉さんと再会してほしい。

小説を読んだ後からすると、なぜ「ぐんない」を省いたのか納得がいかない。エンディングで宇多田が補足してくれたからいいけどさ。

【小説の感想】

映画を観てからこちらを読んだ。大まかなストーリーは同じだったけど、ラストの印象が違った。
映画からは「また会える、その日まで」という希望を感じ取ったが、小説からは永遠の別れの予感を感じた。「だから研究に打ち込む」という動機もみえる。いつか永遠の観念になったその先で会えるかも…という、ちょっと理系からは離れた思想を感じ取った。違うかもしれないが。でも、そうでなければ、世界の果てを物理的な意味と心的意味で掛け合わせる意味がよく分からなくなる。
ただし〈海〉が残されたのかどうかは分からないから、やっぱり別れが確定したわけではない。だから、「ぐっばい」ではなく「ぐんない」なのか。

宇多田ヒカルはこの小説から何を感じ取ってあの詩を書いたのだろうか。読解力鬼じゃないか?

個人的ポイント

・世界の成り立ちという壮大なスケールのモチーフ → 創世記?天地創造?神話?
・研究に恋をするかのように打ち込むことと、お姉さんに恋をすることの掛け合わせ
・ぐんない=別れ=死、アオヤマくんの生においては永遠に会えないかもしれないこと
・世界ってどこまでの範囲を指している?世界の果てが地球に現れる都合の良さ。
・解けない方がいい問いもある→アオヤマくんにとっても、読者にとっても

書籍『会話を哲学する』(三木那由他 著)を読んだ

感想とか批判とかはその他の方がたくさん紡いでいるので、そっちを見てほしい。
私は読了後に抱いた自身の会話の振り返りをつらつら書きとめた。

私は現在、学生寮に住んでいる。この前、陽性者が発生して、しばらく濃厚接触者として過ごした。その期間、陽性者に対する周囲の扱いの雑さに腹が立っていた。
すでに自室で隔離されている陽性者に対し、その陽性者の隣人(Bさんとしておく)が自身の精神的安寧のために「部屋を移動するね」と伝えたことに、私はどうしても許せない引っかかりを感じていた。今までは、陽性者に向かって直接”私はあなたが怖いので必要以上に距離をとります”と差別的態度を伝えているようなものだから、単にそれが許せないのかなと思っていた。陽性者の内側に”避けられる”や”拒絶される”自己が形成されることを恐れたのだと理解していた。

しかし、三木さんの主張から整理すると、ちょっと違った解釈ができた。

Bさんが陽性者に「部屋を移動するね」と言ったとき、
”Bさんが「あなたが陽性になったことにストレスを感じている。だから距離をとる」態度をもつ”
という約束と、もっといえば
”そのような繊細な心をBさんは持っている”
という約束も共有してしまう。
Bさんは自身の心の負担を陽性者が感染した事実に帰属させ、だって繊細な心の持ち主だからしょうがないでしょと開示している。Bさんのストレスの原因が自分が感染したことにあることと、繊細な心へ配慮することを共通する約束として突き付けられた陽性者は、一体何を感じるのか?

もちろん、陽性者は芯のあるしっかりした方だったので、そんなことでいちいち心が折れるほどヤワではないと思う。しかし、だからといってしっかりした心の持ち主を無下に扱っていい理由にはならない。もうひとつの引っ掛かりはここにある。つまり、陽性者の心の強さに乗っかる形、というか利用する形で、Bさんは「部屋を移動するね」と言っているのだ。
三木さんのコミュニケーション観に基づけば、両者の間には”陽性者が所有するメンタルは頑丈だ”という約束が形成されているのかもしれない。

だが、「あなたは強い、だからこれくらいの言動には耐えられる」という主旨のことを他人から言われたとき、「確かに!」と思うのか、「いやそんなわけ」と思うのかは、聞き手の心理次第だろう。「いやそんなわけ」と思ったのに、その感情に蓋をして強い自分として振る舞えば、いつか心が消耗してしまう。しかし、上でみたように、Bさんのストレスの原因を陽性者に帰属させ、なおかつ、繊細な心を持っているのだから配慮してね、という2項を両者は共有してしまった。だから、陽性者はBさんへ負担を与えた人物として自己を認識し、「私の感染のせいでBさんがストレスを感じてしまった。これ以上負担をかけるわけにはいかない。なぜならBさんの心は繊細だからだ」という推論をせざるを得ない。だから、”あなたが所有するメンタルは頑丈だ”という約束を共有されたとき、「いやそんなわけ」と返すことが難しくなる。すると、陽性者がBさんに一方的に配慮する関係性が出来上がる。ちなみに、Bさんは陽性者よりも年上だ。

これは、強さを他人から期待されるうちに次第に消耗していくバーンアウトの事例や、お局様が後輩からの配慮を過剰に要求する構図に似ていないか? Bさんに問いたい。自身の心は一生懸命に守るのに、陽性者の心は考慮しなくてよいのか?

映画『燃ゆる女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督)を観た

監督:セリーヌ・シアマ

製作:フランス 2019年

鑑賞日:2022年9月4日

 

芸術の秋に、と思って鑑賞した。
肖像画を描くことを通して、見つめられることと見つめることの過程を湿っぽく描いていると思う。
挿入曲が極端に少ないので、「顔」と「自然音」のそのままの美しさに没入できた。

モデルを引き受けると宣言し、初めて椅子に座ったエロイーズのギラついた表情が素敵だった。描かれるための顔とは全然違う、内側に温度のある心をもつことを予感させる顔だと感じた。あの顔のためにキャスティングされたんだな!と勝手に納得してしまった。

肖像画を描くことは共同的で相互的な営みだったのかもと思い至った。他者に話を聞いてもらうことで自分が分かるように、他者に描かれることで自分が分かるような。で、描かれている者からも常に対峙され観察されている画家自身がいる。
現在のマリアンヌが教え子に描かれた自身の肖像画をみて悲しそうな自分を見つけたのも、過去を振り返ったことで溢れたマリアンヌの感情を教え子が捉えていたということかと。だから、すぐさま「今は違う」と否定した。現れたのは過去の感情なので。でも過去を振り返って悲しい表情が現れるなら、今でも悲しいんでしょ?と思っちゃう。

相互性、共同的な営みの強調は、つまり、ジェンダー役割や結婚制度が相互的でないことと対比されているのでは?と考えた。結婚、堕胎、職業上の性差別。映画の舞台は中世なのに、全然古いテーマに感じない、つーか今もそんなに変わってないという。

美しいうえ、まさに心を動かしているから二度と同じ表情をすることのない顔は、まるで炎のよう。

完璧にその一瞬を捉えることができない不完全さゆえに、燃やしてしまいたい。

思い出を忘れたいから、燃やしてしまいたい。

それに加え、女の非対称性に怒っている。

だから、「燃ゆる女の肖像」なのか?と考えた。どーだろう。

 

マリアンヌの「最初の再会」はすっごく嫉妬しただろうなと思う。p.28の悪戯心。

ラストも見事。
思い出のヴィバルディ『夏』(だよね?)にのせて、必死に、かつ、丁寧に見つめてきたエロイーズの顔そのものと、次々に現れる表情たち(炎ですね)。
エロイーズは見つめ返してはくれない。なぜなら、マリアンヌは振り返り、画家としての人生を選んだし、マリアンヌが振り返ることで、エロイーズも冥界に引き戻されてしまったから。すでに永遠に別れてしまったから。

思い出のマーニー』とは違い、男性性の登場が少ないことが、かえって夢の時間と現実を対比できており、効果的に働いていると思う。が、やっぱり、女の世界・女にしかわからない世界にはしてほしくない。その点、『君の名前で僕を呼んで』は元カノがうまい具合に絡むので良かったなと。
あと、欲を言えば、せっかく「手」に焦点を当てて描いているので、もっと手を絡めた描写が欲しかった。視線の絡み合いは充実していたのに、なぜ? 腕と手じゃなくて、手と手。
テーマが肖像画なので美を追求するのは仕方がないが、醜さも私は欲しい。堕胎さえ美しいのはどーなん。

 

エロイーズを見つめるマリアンヌを見つめるこの映画の鑑賞者は、跳ね返りとして何を自覚できるのか?

 

(追記)
批判として「2人がなぜ惹かれあったのか分からない」というものを見た。確かに、唐突に2人の身体的接触関係が始まるので困惑するかも。しかし、これには反論できると思う。
というか、これは愛し合う話であって、恋の話ではないんだよ、きっと。(愛するためには相手の要素より自分がどうあるかの方が大事で…という説教はしないでおく)
エロイーズにとって、はじめて自分を見つめてくれる存在がマリアンヌだった。当初はそれが画家だからと知って失望するのだが(最初からマリアンヌの正体に気がついていたようにも思える)、エロイーズにとってマリアンヌは、肖像画のためとはいえ姉の自殺などの込み入った話ができる、つまり自分に向き合おうとしてくれた人物であることに変わりはない。モデルを引き受けることで、お互いがお互いを見つめ合う存在になっていく。また、選択のできなさを抱える自分と同じように、職業上で性に縛られるマリアンヌに自分と似たものを感じたのではないか。

マリアンヌにとってエロイーズは、笑顔をめったに見せない難しい題材であり、観察眼に観察眼で応答するという妙に挑発的な人物だった。当初は画家としてやりがいのある題材程度だったと思うのだが、描くにつれてエロイーズの内側にある芯を垣間見ることになった。ちょっとした保護者だったのに、相手を見直す経験を繰り返し、自ら施したいと欲求した。もしくは画家としてエロイーズの美しさを手に入れたいと思ううちに、心から願ってしまった。要するに、題材としてのエロイーズに惹かれるうちに、人物としてのエロイーズにも惹かれたのだと思う。

映画『思い出のマーニー』(米林宏昌監督)を観た

監督:米林宏昌

製作:2014年 

鑑賞日:2014年→2022年8月12日

以下、filmarksより転載

 

 一番好きなジブリ映画は何かと聞かれてこれだと答えたら、「本気で言ってる?」と返されたので、本当にいい映画だったのか再確認するべく何度目かの再鑑賞。結論、やはりいい映画だった。
 ただ、今まで積み上げてきたジブリ作品と伝統があるから、かえってジブリらしくない感じにウケているだけかもしれない。杏奈の不完全な人格を自分に投影しすぎて、共感しまくっている節もあると思う。

 

 12歳にしてはやや幼い杏奈の、精神的に確立した人からすれば「そんなことで?」と思うような悩み、いわば、思春期特有のくよくよした内面と里子としての自分の存在意義の揺らぎに、視聴者が終始付き合わされるお話。杏奈は最終的に自己解決しているので、余計に視聴者の付き合わされている感が印象に残る。でもリアルの世界でも、誰かの悩み相談に乗ったり、成長を見守ったりすることは、共有できない何かに付き合わされているようなものでしょう。それを、冒険譚や伝説を語っていたはずのジブリ映画がやったということにえらく関心した覚えがある(あの頃は。メアリを観て勘違いだったと思い直したが)。 

 杏奈は自身について自分は外側の人間だと語る。実際には、自分の内側にこもってしまい、でも言いたいことは山ほどあるから思わず独り言が出てしまうような、精神的にそこそこ行き詰った女の子。一個上の信子の大人っぷりとは対象的だ。自分の閉じた世界しか知らないから、比較対象をもたないが故に、「絶対に」とか「みんな」とか「嫌い」を多用する。社会的な常識は備えているので、いい子になるのが上手い。内面で悪口をバンバン言い放っているのは、そんな自分を解放したいという表れで、むしろ健全な反応なのだろう。「こんな悪口を考えてしまうなんて自分はなんて悪い人間なんだ」とはならず、悪口をいう自分をむしろ受け入れている。悩みの程度も深度も幼い。つまり、取るに足らない何でもない悩み、でも本人にとっては深刻な悩みを抱える人物としてよくできていると思う。 

 幼児~小学生辺りの子どもは、しばしば空想上の友達を心の中にもつことが知られている。心理学の世界ではイマジナリーフレンドと呼ばれているらしい。マーニーの存在は、杏奈が生み出したイマジナリーフレンドだと解釈するとすっきりする。実際にははっきり姿形が見えるのではなく、声だけ聞こえることもあるようだ。イマジナリーフレンドはいつしか消えてしまい、幻覚や精神疾患とは区別される。 

 杏奈はイマジナリーフレンドをもつ程度には子どもであるのだが、一方で自分が生み出した想像上の人物だと認めることができるくらいには大人でもある。自分で自分の目を覚ますことができている。杏奈とマーニーの絡みにおいて、おそらく杏奈の立ち位置には、かつてのかずひこや花売りの少年(十一さんか?)がいたのだろう。杏奈はマーニーと関わった人物の位置に自身をスライドさせて想像をくり広げていたことになる。ということは、杏奈の秘密である悩みをマーニーに打ち明ける場面は、マーニーの記憶に寄らない杏奈自身の内面世界ということになる。「もらいっ子の私。自治体からお金をもらっている両親」という杏奈の開示に対して、マーニーは「それでも愛情を注いで育ててくれた人物は立派でしょ。それこそ両親に相応しい」という返答をする。このマーニーの返答自体、杏奈が杏奈へ向けた回答なのだと思う。つまり、杏奈は最初から自分で結論を導いていた。この杏奈とマーニーの秘密の交換の場面では、くよくよせずにはいられない時期における、自己の悩み・問いとその結論を受け入れることができると分かっていながら素直に受け入れられず、内面でぐるぐると渦をまく過程が特に丁寧に描かれているように私には思えるのだ! 
 マーニーとは、祖母の語りの投影と、杏奈自身の内面の鏡であり、両者が組み合わさる形でイマジナリーフレンドとして登場している(と私は思う)。  
ここら辺の場面は台詞がとても良くできていて、杏奈は「今まであってきた人の中でマーニーが一番好き」と言い、マーニーは「どの女の子よりも杏奈が一番好き」と言う。このお互いの気持ちの微妙な齟齬がたまらない。杏奈の正直さと率直さが眩しい。気持ちのすれ違いに気が付かないまま、マーニーに置いていかれる展開に進んでいく。 
 杏奈とマーニーの関係についても、杏奈は途中マーニーに恋をしているように見える。しかし頬を赤らめる場面は他にもいくつか登場し、共通しているのは他者から承認されたときや、身体的距離がぐっと近くなったときだ。そのほとんどが経験として蓄積される以前の経験なので、他者の温かさに思わず初々しく頬を染めるのだろう。自分がこれからどんな人物に恋をするかすら分かっていない少女が、同じく孤独な少女のその孤独を埋めようとする。はたから見れば恋に見えるけど、杏奈にとってはたぶん違う。心の中の、秘密の、交換こ。 
 最後、「絶対に許さない」心境でマーニーと対峙する杏奈は、「絶対に」なんて言ってしまう自分をマーニーという鏡を通して許す。「嫌い」だった自分を、マーニーに「好き」と言うことで好きになる。マーニーの孤独を埋めたのはかずひこだったことを最初から杏奈は知っており、孤独が辛いことも知っているから。そしてマーニーは微笑んで消える。 
 北海道特有の二重窓が牢屋の格子のように見える描写をした後で、マーニーがその鍵をぶち壊して窓を解放する演出が好きだ。爽やか、清々しい。

 

 マーニーの半生を知ると、終始孤独の中にあり、報われない人物だったように感じてしまう。杜撰な育児によって育てられた子どもは、自身の子どもへも杜撰な育児を継承してしまう。孤独に耐えられないマーニーは、病気ではあったものの、エミリに孤独を与えてしまった。結果、親子仲は決裂する(片親、育児放棄、家出の問題の舞台がさらりと札幌であることに、一気に現実味を覚えてちょっと戦慄する。狙ってやったのだろうか?)。大切な者の喪失を経て、晩年のマーニーは杏奈を通じて孤独を癒したのだろう。
だから、杏奈が許したことで微笑んだマーニーの微笑みは2重の意味をもつ。一つは杏奈がマーニーという鏡を通して杏奈を承認したこと、もう一つは、過去、本当に杏奈がマーニーを癒し、マーニーは杏奈によって承認を与えられていたこと(というか単におばあちゃんは孫を見守っていたぜ的な)。

 この映画のポイントはサスペンス要素があることだと思う。最後に種明かしをすることで謎が解けるというおなじみの展開が好きな人には刺さる。マーニーは杏奈の想像上の人物だった→なのになぜ日記が実在するの?→マーニーの半生振り返り→実は杏奈の祖母で、杏奈は祖母の語りを聞いていた
という次々に答え合わせしていく流れが、ジブリらしくなくていい。だから伏線がちりばめられているのもこの映画の特徴で、杏奈の青い目や、マーニーの横顔が杏奈と一致する描写は、杏奈とマーニーの血がつながっていることを示していた。 

 

【批判点】

  • 男性性の影が薄い、もしくは、男性が導き手としての役割を持ちすぎていて、やはり男性監督作品だなと思わざるを得ない。
    杏奈の父親は、頼子曰く「こんなときに出張」に行っている。話をややこしくしないためのご都合主義的な削除対象かと思いきや、杏奈の辛い回想にも出てこない。家族写真には登場するのに、杏奈と父親との関係が一切描かれないのが不思議である。父親は関与しなくてもいい程度の問題だったと解釈すると、頼子の心配性の過剰さ(実際そうなのだけど)、実は事態はそんなに深刻ではなくて思春期特有のくよくようじうじに視聴者が巻き込まれていただけ(実際そうなのだけど)、という側面が強調される。祖母、母、娘に継承される愛情のみにフォーカスが当たるので、結局「女の話」なのね……とがっかりする。父親は冷静に画面外から見守っている存在という、家庭の中の“神ポジ”に落ち着いてしまう。ああ、そう。
    大泉洋演じる医者しかり、満潮時に船に乗せてくれた十一さんしかり、かずひこしかり、大雨の中倒れていた杏奈に自分の服をかけて助けを呼びに行ったさやかの兄しかり、困っている女の子をさりげなく助けて導く存在としての男性ばかり。冒頭の体育教師なんて最悪で、体格の良さとやや高圧的な姿勢を兼ね備えて杏奈を承認しようとしていた。
    恋愛も憎しみも何も知らない杏奈の閉じた世界に、そのような導き手が現れるという暗示に見えてしまい、ちょっと気持ち悪い。

 

  • 里子が抱く自己存在へ向かう悩みは、「自治体からお金をもらっている両親」なのか?遺伝的な母と父がどんな人物だったのか知りたい、という気持ちも生じるのではないか?
    杏奈が握りしめていた写真は、唯一残る両親の形見である可能性があるのだから、映画ラストで頼子が渡すのは不自然。脚本が不完全(取材が足りない)なのか、頼子の配慮が至らないのか。

 

もっと書きたいことはある。

  • 空と海の刻々と変化する表情が素晴らしいこと
  • 大岩夫婦の杏奈に干渉せず放置するゆとりが治療の一環であること
  • 大岩セツ最強説
  • 大岩家の造りは釧路の冬に対して説得力がないこと

総合すると、良い映画だという結論になった。

映画『セブン(Sev7ne)』(デヴィッド・フィンチャー監督)を観た

監督:デヴィッド・フィンチャー

1995年製作

鑑賞日:2018年→2022年8月14日再鑑賞

以下、filmarksより転載(ネタバレあり)

 

最高の結末だと思う。

この映画が好きだと先輩に言ったら、箱の中は「犬の首」で、ブラピが狂っていただけ説もあるよと聞き、確かめたくて再鑑賞。
結論、箱の中は「妻の首」で、でもブラピも狂っていたと思う。考察といえる程、何か考えたわけではないが、持論をつらつら書いてみる。

 

●妻の首説の理由
犯人ジョン・ドゥが自首した時点で大罪は残り2つ。つまり被害者も残り2人。
1年前から準備してきた「奥のある」犯人が、最後の最後に犬の首を用意して大罪を完成させないのはあり得ない。トレーシーの妊娠はトレーシーに会いに行った時に偶然知ったのだから、頭数としてのつじつまを合わせるために、殺人を急遽取りやめることは困難だと思う。仮に殺人を急遽取りやめたとしても、トレーシーか胎児のうちどちらかを殺すことは不可能だろう。トレーシーを殺せば胎児も死に、妊娠初期の胎児を殺そうと思えば子宮を取り出さなければならないのでトレーシーも死ぬからだ。それに、箱の中身が「犬の首」であるなら、中身をみたサマセットがミルズ刑事を落ち着かせるために何も言わないのはおかしい。
反論として、ジョンが警察署に自首しにきたとき、奥さんから電話が入っていると言われていたため、トレーシーは生きているじゃないか!というものがあるらしい。でも、自首したジョンが血まみれだったのは、奥さんを殺害した直後だったからじゃないだろうか。だから、ジョンの衣服から「高慢」ともう一人の血液が検出された。トレーシーは助けを求める電話をしたが、誰も出ることはできず、地下鉄の騒音に紛れて殺されてしまった。(蛇足: もしかしたら、ミルズ夫妻の賃貸の大家はジョンで、部屋に入った人を殺しの対象にするつもりだったのか……?資金源にもなるし)

したがって、箱の中身は「妻の首」である。しかし、そうすると、ジョン・ドゥは胎児を含めて8人を殺してしまったことになる。
ここでふと注目したのが、ジョン・ドゥが荷物を届けるように指定した時刻だ。彼は「7時きっかり」に届けるように依頼していた。「7時」であるのは大罪の7に拘ったからか、製作陣の演出だろう。
ジョン・ドゥがサマセットに時刻を聞いたとき、サマセットは「7時01分だ」と答える。このとき、サマセットは「だいたい7時だ」とか「7時過ぎだ」と答えることも可能だったし、物語上「7時5分」でも「6時58分」でもよかったはずだ。しかし、映画の造り込みからすれば、「7時01分」には絶対に理由がある。無駄のない台詞はない。なぜ1分余分なのか。
完全に私の解釈になってしまうのだが、それは7時きっかり、つまり7人で完成する殺人を計画していたのだが、実際には7時+1分余分で、意図せず8人の殺人になってしまったことが意味として含まれているからだと考える。
総括すると、感情的な癖がありいつも怒っているミルズ刑事の、その気性の粗さをジョン・ドゥに見込まれたがゆえに犠牲にされたトレーシー、神のように審判を下すことを体現するも絶対に神になることはできない(あるいはミルズを羨ましがっていた)ジョン・ドゥで、7つの殺人は完成する。しかし、予期せぬ形で胎児も殺してしまう。トレーシーを殺すとどうしても1人分余分に殺さざるを得ない。製作陣はそれを分かっていて「7時01分」にした。まだ生まれていない胎児を人間として1人とカウントするかどうかには議論があるだろう。だから、同じ単位は使わず「1分」なのだ。
結局、罪のある7人を殺害し、大罪は完成した。最後の枠を「嫉妬」を体現した自身で埋めることができたので、ジョン・ドゥの勝ち。※最後が「憤怒」でない違和感は後述。

と、ここまで考えて、「怠惰」のあいつは死んでいないぞ……と気が付いた。待っているのは地獄らしいので殺したことと同じようなものかもしれないが、死んではいない。そうすると、最終的に犠牲になったのは7人ジャストか。う~ん、都合が良すぎて、なんか変だ。
それに、「憤怒」を体現しているブラピが殺されないのも納得しきれない。ジョンがミルズ刑事の写真を撮っていたことから、もともとミルズ刑事は大罪殺人の対象者に含まれていたと予想される。それが、刑事の訪問で予定が変更された。追いかけっこのあと、ジョンはミルズ刑事を殺してもよかったのに、あえて生かした。なぜなら、今殺してしまえば、「憤怒」を体現できないから。
5人までの殺人は犠牲者が自分自身で罪を体現することで成立していた。でも6人目からは、憤怒を体現したミルズ刑事によって殺される自分(ジョン)と、嫉妬を体現したジョンによって殺されるトレーシーという、大罪の向かい合いがなければ成立しない(ミルズがジョンに怒りを向け、ジョンがミルズに嫉妬した)。犠牲者が罪を体現していないのだが……いいのか?これで。
箱の中が犬だった場合、つまりトレーシー生還ルートの場合、すっきりするのは、殺されているのは6人で、物語後に憤怒を体現してしまったミルズ刑事が殺されること(自分自身によってとか?)。

 

●ミルズ刑事狂っている説の理由
トレーシーは“中絶したいなら妊娠の事実を夫に言うな”的なことをサマセットに言われており、終盤まで夫に何も伝えていなかった。つまり、相談してから日数が絶っていないのでまだ迷っていたか、中絶を心に決めていたかになるだろう。
とても引っかかるのは、一般的に夫婦の関係が良好だった場合、妻は、妊娠の事実を他人である年上男性に相談してから夫に打ち明けるだろうか?トレーシーの謎の不安げな表情、職場への頻回な電話等を考えると、他者へSOSを出しているように見えてしまう。なぜ不安なのか、SOSを出すのか。ミルズ刑事は、家庭でどんな人物だったのか。
“最近、夜が遅くて妻が疑う”というミルズ刑事の台詞は、文脈通りに解釈すれば、妻が浮気を疑っている、という風にとれる。しかし、薬物をやっているのではないかと疑っている、ともとれないだろうか。その根拠は、ミルズ刑事が新米刑事のころに一発発砲した事件にある。その犯人の名前をミルズはどうしても思い出せない。もしかすると、その薬物中毒者とはミルズ自身のことで、その不祥事か、別の薬物絡みの不祥事のために、この街に左遷されたのでは???と考えた。つまり、妻は夫が以前のように薬物に手を染めているから帰りが遅いのではないかと疑っているのだ。そうすると、ミルズ刑事の明らかに刑事に向かない気性の粗さも説明できる。薬物がきれて禁断症状に陥っているのでは……?
妻は若すぎる頃に結婚を決め、現在ではミルズを夫と決めてしまったことにやや後悔している、もしくは不安を感じている。
以上が、ミルズ刑事狂っている説の概要。

 

胸毛を二人で剃っている場面での、ミルズ刑事の「俺は」に何が続くのかは分からなかった。「実は俺も狂っているんだ」だといいな…。
この作品は人によってそれぞれ筋の通る解釈があり、それぞれの解釈を知ることを含めて楽しめる。ミルズ刑事は実は信心深い人説(アクィナス読めてないが)、最後に犯人を許していた説(何発も発砲することの説明がつかないが)、サマセット共犯説等々、色々あって楽しい。

映画『私の中のあなた』(ニック・カサヴェテス監督)を観た

原題『My Sister's Keeper

監督:ニック・カサヴェテス

鑑賞日:2022年8月17日

以下、filmarksから転載

 

遺伝子操作によって、血液系疾患を持つ兄弟と一致する血液型を持つ子どもがいる。
白血球の血液型は数万人に1人の割合でしか一致しない。しかし、兄弟なら1/4の確率で一致する。もっと確実にしたいなら、先進医療によって確実に一致する胚だけを妊娠させるやり方がある。そうやって産まれた子は、救世主兄弟(savior siblings)やドナー・ベイビーと呼ばれる。それでも、治療が成功して病気を抱えた兄弟が助かるとは限らない。
子どもの手段化では?とか、救世主兄弟の負担を考えていないとか、救世主兄弟が自身の出自について悩むリスクなど、当然、色々議論されている。

同じような病気の人が身近にいるので、病棟での患者同士の自己紹介の仕方や(病名付き、「レアだね」と言う感じ)、治療を茶化したり(「点滴カクテル」)、CVに繋がっているルート類をカチャカチャしたりする感じがリアルだと思えた。
当事者家族が観れば、母親が暴走して当事者の想いを組み取れないことや、血液型が一致しなかった兄弟が無力感に襲われる場面は、観ていて苦しくなると思う。
患者の精神面はリアルな割に、治療の説明や症状の描き方は誤解を生みそうだと思う。医療情報の精度としてどうなんだろう……と心配だ。放射線療法後に消化に悪いフライドポテトを食べるか、普通?アメリカだから?
途中、鼻カニューレが飾り化していたことは目をつぶる。

ただ、最後、
姉を救えなかったことに対して、救世主兄弟はもっと大きく揺らぐと思う。妹の精神状態が大人すぎてびっくりした。