映画『思い出のマーニー』(米林宏昌監督)を観た

監督:米林宏昌

製作:2014年 

鑑賞日:2014年→2022年8月12日

以下、filmarksより転載

 

 一番好きなジブリ映画は何かと聞かれてこれだと答えたら、「本気で言ってる?」と返されたので、本当にいい映画だったのか再確認するべく何度目かの再鑑賞。結論、やはりいい映画だった。
 ただ、今まで積み上げてきたジブリ作品と伝統があるから、かえってジブリらしくない感じにウケているだけかもしれない。杏奈の不完全な人格を自分に投影しすぎて、共感しまくっている節もあると思う。

 

 12歳にしてはやや幼い杏奈の、精神的に確立した人からすれば「そんなことで?」と思うような悩み、いわば、思春期特有のくよくよした内面と里子としての自分の存在意義の揺らぎに、視聴者が終始付き合わされるお話。杏奈は最終的に自己解決しているので、余計に視聴者の付き合わされている感が印象に残る。でもリアルの世界でも、誰かの悩み相談に乗ったり、成長を見守ったりすることは、共有できない何かに付き合わされているようなものでしょう。それを、冒険譚や伝説を語っていたはずのジブリ映画がやったということにえらく関心した覚えがある(あの頃は。メアリを観て勘違いだったと思い直したが)。 

 杏奈は自身について自分は外側の人間だと語る。実際には、自分の内側にこもってしまい、でも言いたいことは山ほどあるから思わず独り言が出てしまうような、精神的にそこそこ行き詰った女の子。一個上の信子の大人っぷりとは対象的だ。自分の閉じた世界しか知らないから、比較対象をもたないが故に、「絶対に」とか「みんな」とか「嫌い」を多用する。社会的な常識は備えているので、いい子になるのが上手い。内面で悪口をバンバン言い放っているのは、そんな自分を解放したいという表れで、むしろ健全な反応なのだろう。「こんな悪口を考えてしまうなんて自分はなんて悪い人間なんだ」とはならず、悪口をいう自分をむしろ受け入れている。悩みの程度も深度も幼い。つまり、取るに足らない何でもない悩み、でも本人にとっては深刻な悩みを抱える人物としてよくできていると思う。 

 幼児~小学生辺りの子どもは、しばしば空想上の友達を心の中にもつことが知られている。心理学の世界ではイマジナリーフレンドと呼ばれているらしい。マーニーの存在は、杏奈が生み出したイマジナリーフレンドだと解釈するとすっきりする。実際にははっきり姿形が見えるのではなく、声だけ聞こえることもあるようだ。イマジナリーフレンドはいつしか消えてしまい、幻覚や精神疾患とは区別される。 

 杏奈はイマジナリーフレンドをもつ程度には子どもであるのだが、一方で自分が生み出した想像上の人物だと認めることができるくらいには大人でもある。自分で自分の目を覚ますことができている。杏奈とマーニーの絡みにおいて、おそらく杏奈の立ち位置には、かつてのかずひこや花売りの少年(十一さんか?)がいたのだろう。杏奈はマーニーと関わった人物の位置に自身をスライドさせて想像をくり広げていたことになる。ということは、杏奈の秘密である悩みをマーニーに打ち明ける場面は、マーニーの記憶に寄らない杏奈自身の内面世界ということになる。「もらいっ子の私。自治体からお金をもらっている両親」という杏奈の開示に対して、マーニーは「それでも愛情を注いで育ててくれた人物は立派でしょ。それこそ両親に相応しい」という返答をする。このマーニーの返答自体、杏奈が杏奈へ向けた回答なのだと思う。つまり、杏奈は最初から自分で結論を導いていた。この杏奈とマーニーの秘密の交換の場面では、くよくよせずにはいられない時期における、自己の悩み・問いとその結論を受け入れることができると分かっていながら素直に受け入れられず、内面でぐるぐると渦をまく過程が特に丁寧に描かれているように私には思えるのだ! 
 マーニーとは、祖母の語りの投影と、杏奈自身の内面の鏡であり、両者が組み合わさる形でイマジナリーフレンドとして登場している(と私は思う)。  
ここら辺の場面は台詞がとても良くできていて、杏奈は「今まであってきた人の中でマーニーが一番好き」と言い、マーニーは「どの女の子よりも杏奈が一番好き」と言う。このお互いの気持ちの微妙な齟齬がたまらない。杏奈の正直さと率直さが眩しい。気持ちのすれ違いに気が付かないまま、マーニーに置いていかれる展開に進んでいく。 
 杏奈とマーニーの関係についても、杏奈は途中マーニーに恋をしているように見える。しかし頬を赤らめる場面は他にもいくつか登場し、共通しているのは他者から承認されたときや、身体的距離がぐっと近くなったときだ。そのほとんどが経験として蓄積される以前の経験なので、他者の温かさに思わず初々しく頬を染めるのだろう。自分がこれからどんな人物に恋をするかすら分かっていない少女が、同じく孤独な少女のその孤独を埋めようとする。はたから見れば恋に見えるけど、杏奈にとってはたぶん違う。心の中の、秘密の、交換こ。 
 最後、「絶対に許さない」心境でマーニーと対峙する杏奈は、「絶対に」なんて言ってしまう自分をマーニーという鏡を通して許す。「嫌い」だった自分を、マーニーに「好き」と言うことで好きになる。マーニーの孤独を埋めたのはかずひこだったことを最初から杏奈は知っており、孤独が辛いことも知っているから。そしてマーニーは微笑んで消える。 
 北海道特有の二重窓が牢屋の格子のように見える描写をした後で、マーニーがその鍵をぶち壊して窓を解放する演出が好きだ。爽やか、清々しい。

 

 マーニーの半生を知ると、終始孤独の中にあり、報われない人物だったように感じてしまう。杜撰な育児によって育てられた子どもは、自身の子どもへも杜撰な育児を継承してしまう。孤独に耐えられないマーニーは、病気ではあったものの、エミリに孤独を与えてしまった。結果、親子仲は決裂する(片親、育児放棄、家出の問題の舞台がさらりと札幌であることに、一気に現実味を覚えてちょっと戦慄する。狙ってやったのだろうか?)。大切な者の喪失を経て、晩年のマーニーは杏奈を通じて孤独を癒したのだろう。
だから、杏奈が許したことで微笑んだマーニーの微笑みは2重の意味をもつ。一つは杏奈がマーニーという鏡を通して杏奈を承認したこと、もう一つは、過去、本当に杏奈がマーニーを癒し、マーニーは杏奈によって承認を与えられていたこと(というか単におばあちゃんは孫を見守っていたぜ的な)。

 この映画のポイントはサスペンス要素があることだと思う。最後に種明かしをすることで謎が解けるというおなじみの展開が好きな人には刺さる。マーニーは杏奈の想像上の人物だった→なのになぜ日記が実在するの?→マーニーの半生振り返り→実は杏奈の祖母で、杏奈は祖母の語りを聞いていた
という次々に答え合わせしていく流れが、ジブリらしくなくていい。だから伏線がちりばめられているのもこの映画の特徴で、杏奈の青い目や、マーニーの横顔が杏奈と一致する描写は、杏奈とマーニーの血がつながっていることを示していた。 

 

【批判点】

  • 男性性の影が薄い、もしくは、男性が導き手としての役割を持ちすぎていて、やはり男性監督作品だなと思わざるを得ない。
    杏奈の父親は、頼子曰く「こんなときに出張」に行っている。話をややこしくしないためのご都合主義的な削除対象かと思いきや、杏奈の辛い回想にも出てこない。家族写真には登場するのに、杏奈と父親との関係が一切描かれないのが不思議である。父親は関与しなくてもいい程度の問題だったと解釈すると、頼子の心配性の過剰さ(実際そうなのだけど)、実は事態はそんなに深刻ではなくて思春期特有のくよくようじうじに視聴者が巻き込まれていただけ(実際そうなのだけど)、という側面が強調される。祖母、母、娘に継承される愛情のみにフォーカスが当たるので、結局「女の話」なのね……とがっかりする。父親は冷静に画面外から見守っている存在という、家庭の中の“神ポジ”に落ち着いてしまう。ああ、そう。
    大泉洋演じる医者しかり、満潮時に船に乗せてくれた十一さんしかり、かずひこしかり、大雨の中倒れていた杏奈に自分の服をかけて助けを呼びに行ったさやかの兄しかり、困っている女の子をさりげなく助けて導く存在としての男性ばかり。冒頭の体育教師なんて最悪で、体格の良さとやや高圧的な姿勢を兼ね備えて杏奈を承認しようとしていた。
    恋愛も憎しみも何も知らない杏奈の閉じた世界に、そのような導き手が現れるという暗示に見えてしまい、ちょっと気持ち悪い。

 

  • 里子が抱く自己存在へ向かう悩みは、「自治体からお金をもらっている両親」なのか?遺伝的な母と父がどんな人物だったのか知りたい、という気持ちも生じるのではないか?
    杏奈が握りしめていた写真は、唯一残る両親の形見である可能性があるのだから、映画ラストで頼子が渡すのは不自然。脚本が不完全(取材が足りない)なのか、頼子の配慮が至らないのか。

 

もっと書きたいことはある。

  • 空と海の刻々と変化する表情が素晴らしいこと
  • 大岩夫婦の杏奈に干渉せず放置するゆとりが治療の一環であること
  • 大岩セツ最強説
  • 大岩家の造りは釧路の冬に対して説得力がないこと

総合すると、良い映画だという結論になった。