映画『言の葉の庭』(新海誠監督)を観た

監督:新海誠 製作年:2013年

鑑賞日:2016年頃→2022年9月9日再鑑賞

【過去のレビュー】
憂いている女性を包容力のある男の子が救ってあげるというヒーローものかな?
新海監督は年上のお姉さんが好きなん?

【2022年9月再鑑賞】
46分という短さに惹かれて、超久しぶりに見返した。
案外、以前よりも肯定的に評価できたが、でもやっぱり気持ち悪い。なんというか、『ペンギン・ハイウェイ』のアオヤマくんとお姉さんの関係を見習ってほしい。
二人とも成長しないことを製作側が自覚しているストーリーなら高評価、そうでないなら低評価を付ける。私にはどっちなのか判別がつかない。前者だった場合、タイトルが綺麗すぎるので変更した方がいいと思う。

その名も『マザコンとメンヘラの邂逅~成長しない二人~』

 

新海誠の作品は、物語の核となる綺麗な女の人を神格化して描いていると思う。謎に満ちているけど、手に触れたい存在に仕立て上げており、都合よく振る舞うとでも言えようか。『天気の子』の女の子(名前忘れた)しかり、『君の名は』の三葉しかり。

一方で、彼女らと対比される形でダメな女も登場するので、品定め感もすごく感じる。この物語でいうダメな女は母親と髪巻いてる女子生徒である。母親へ投げかける台詞や女子生徒の取り巻き達の台詞から、一回り年下に手を出すことをタブー視するか、鼻で笑っている監督の姿勢が見える。だから、雪野ちゃんと秋月君のロマンスには背徳感が匂う。気持ち悪い。「年齢なんて関係ない」とはしないことが、ムカつくわ。

多分、恋に恋している男の子の目線から描いているからなんだよね。別に、そのような男の子の感性は初々しいし、綺麗だと思うので、描きたければ描けばいいと思う。でも物語の進行上、他者と関わるのであれば、その恋に恋している男の子の世界に亀裂が入る経験とか、拒絶されて傷ついて、でも思い出になることを受け入れる経験とか、…ね、なんか、その先がほしいのよ。妄想モノのイケないビデオに付き合わされているような気分になる。誰か、喝を入れてあげて?と願いたくなる。

総じて背景が綺麗だった。冒頭から見事。雨と水たまりに背景が反射し、光とともにキラキラしている描写が素晴らしい。感動した点は以上。

 

”「年齢なんて関係ない」とはされていないので、雪野ちゃんと秋月君のロマンスには背徳感が匂う”ことを念頭に、以下ツッコミのようなものを書く。
27歳の女性が15歳の男の子から癒しを得ていた、という設定は、まぁ…飲み込める。というか、確かに同年代には話せないけど、相手が幼くて無垢であるがゆえに、素の自分をさらけ出せることはあると思う。アラサーと10代の間なら、妙な人生経験マウントすれすれにはなるが、よくあることなのでは(まさに学校でよく見る光景)。

この設定からすれば、雪野ちゃんは秋月君が自分の心に決して侵入してこない、つまり自分を傷つけることもないことを確信していたから、雨の日に毎回会ってくれていた。でもそこで前提されているのは、相手と自分が絶対に交わらないという安心感だと思うので、秋月君からの告白を雪野ちゃんが真剣に受け取るのはなんか違う。綺麗な女の人のことを都合よく描きすぎている。相手は定期試験に苦戦する程度のただの高校生だぞ?(それを自覚している秋月君に対し、雪野ちゃんから抱擁するのはなんなん?ご褒美?)

それから、秋月君からの告白に瞬時に答えることができないなら、後でちゃんと断れよ、雪野ちゃん、と強く思う。何、たぶらかしてんのさ。「勘違いさせてごめん、でも君には感謝している」くらいはっきり言って、きっぱり水に流し、秋月君への責任とれよ。つまり、もう会わないと約束するか、きっぱり拒絶するかしてほしい。27年も生きて、一応、交際経験もあるんだし!他人の痛みくらいわかるだろ!!という雪野ちゃんへのいら立ちを激しく感じた。自分の心が繊細であることを自覚し、精神的安寧は一生懸命に確保するくせに、他人の心の機微には鈍感なタイプなのかも。

最初から最後まで、雪野ちゃんがそういうことができない女として絶妙に描かれているんだか、綺麗に理想的に振る舞う女性として描かれているんだか、よく分からないんだよね。

確かにこういう人は実際にいるけど、それを意味不明なロマンス作品にしちゃうのが気持ち悪い。これは、私の好みの問題なのか?あれか、こういう弱さをさらけ出せちゃう人いるよね~という皮肉なのか?いずれにせよ、雪野ちゃん気持ち悪いわ。

悩むのは、伊藤先生が雪野ちゃんの元カレで、別れた後も色々サポートしてくれていたという設定をどう評価すればいいのか分からないこと。
伊藤先生は秋月君が絶対に知らない雪乃ちゃんを知っている訳だし、関係が終わった後もサポートしてくれるという大人な対応をしてくれた。これを秋月君の幼さを際立たせる設定としてみるべきなのか。
でも一方で、雪野ちゃんは伊藤先生に「おばあちゃんに会っている」という嘘をついており、自己嫌悪に陥っている。そういう誰にも明かせない雪野ちゃんの自己を開示できる救いの存在として秋月君を理解するべきなのか。つまり、伊藤先生は雪野ちゃんを癒せない存在として機能しているとみるべきなのか。でも雪野ちゃんが伊藤先生をそういう風にしか見ることができないのなら、雪野ちゃんの人間性は最悪だね……と思う。伊藤先生、別れて正解だよ。

むしろ、秋月君がヒーロー過ぎるのかもしれない。そんな完璧な夢追い人おる?家族への未練を抱え、年上の女性も抱擁できちゃう達観した“俺像”が気持ち悪い。

秋月君の靴づくりにのめり込む理由が母への想いにあるなら、兄が母を「早く子離れして欲しい」と形容したことの逆で、秋月君には「早く母離れしな?」という形容をあげたい。
女物の靴を作るのも、年上の雪野ちゃんに惹かれたのも、最終的に母を求めてという心理に行き着く。綺麗に仕上げちゃあかんやつでしょ。15歳という幼さからしたら、理解はできるが、応援はしない。
家事諸々を子どもに任せて、子どもの夢を応援することもせず、自らは男に走るような母は明らかに毒親なのだから、秋月君は早く自立して、母と疎遠になりな?精神的にもね?と思う。だから、やはり、秋月君の成長を考えたら、雪野ちゃんと接点を残したまま終わるのは良くない。

しかも、「いつか会いに行く」という結末が、ありもしないその後を予感させて気持ち悪い。色んな人のレビューを読んでいると、結ばれない結末支持派もいるようだ。結ばれないという結末を用意するのなら、抱擁じゃなくて、決別で締めようぜ。雪野ちゃんから拒絶されて、恥ずかしくなるくらいのめっちゃ苦い思い出と決別を胸に靴を作る、という方が断然かっこいいのだが。
だって、そんな甘美な奴が作った靴を履きたいか?